明るい夜に出かけて感想 「明るい夜」はきっと、誰の心の中にも

 今の私は今野大輝というアイドルに夢中ですが、2016年ごろからしばらくは東啓介という役者を応援していました。彼は身長190cm、身体の大きさを生かしたダイナミックな歌唱が得意で、167cm・細い・繊細な歌唱が得意な今野大輝とは真逆な存在です。しかし、そんな東と今野には一つだけ共通点があります。それは「なぜか良作ばかり舞い込んでくる」というところです。そして、その2人を演出したことある演出家が今作「明るい夜に出かけて」を手がけたノゾエ征爾です。(東啓介は18年ノゾエ征爾演出作品「命売ります」に主演として出演。これも良作でした)今作については、初日公演を見た後に書き殴ったものは感想というより、レポに近いものだったので、一旦改めて感想を書ければと思います。

 

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※初日が終わって目バッキバキで書いたもの

 

 

明るい夜とは、孤独の中で見つけた光

 

 「明るい夜に出かけて」とは、今作のタイトルでもあり、佐古田が文化祭で演じた劇中劇のタイトルでもあり、その劇中劇に影響を受けた鹿沢が作った曲に富山が詞を乗せた曲のタイトルでもあります。劇中劇で佐古田演じる男は、妻が書き残した「明るい夜に出かけて」というメモを見て「明るい夜とは何なのだ」と街中を探し回ります。結局「明るい夜」に出かけていた妻が男を待っていたのは、以前2人で出かけた那須高原の森の中、寂しさと不安で歩いていたところに見つけた一軒のコテージでした。つまり、「明るい夜」とは、物理的な明るさではなく、孤独の中で見つけた人の暖かさであると劇中劇の作者である佐古田は示したのでしょう。

 

 終盤、「寂しさを感じない人間が深夜ラジオにハマるか?」と鹿沢は指摘します。たしかに、劇中に登場する、深夜ラジオリスナーとして描かれている人は孤独を抱えているように見えます。20歳で童貞の永川(私は20歳まで性交渉を経験しないから孤独だとは思いませんが、少なくとも永川は自身の童貞を気にしている描写があります)不登校気味だった佐古田、そして、生活を立て直す手段として「逃亡」を選んだ富山。メインキャラクターの中で唯一深夜ラジオを聞かない鹿沢もC.C.の彼女にビンタされた後(グーで腎臓、チョキで目潰しの話の後)「休憩中に聞いてみようかな」と話しているところも象徴的であるように感じます。そんな孤独を抱えた彼らにとっての「明るい夜」とは、誰も起きていない家の中で、こっそり深夜に聞くラジオを通じて触れ合う人の温もりなのでしょう。

 

 人は誰しも孤独を抱えていると同時に「明るい夜」を持っているのではないでしょうか。バツイチ子持ちのアニさんも、サボりたがりの荒井さんも、きっと、富山に突き飛ばされた元カノも。そしてそれは観客である私たちも同じだと思います。大千穐楽のカーテンコールで演出家のノゾエ征爾は「演劇は終わったら明日には跡形もなくなってしまう その儚さが好きだ」と話していました。舞台「明るい夜に出かけて」は公演が終了して「形」は無くなってしまいましたが、形に残らないからこそ、きっと観客の心の中には生き続け、この作品の存在そのものが、その人にとっての「明るい夜」になる、そういう作品になったと思いました。

 

Back to the Future,タイムマシンはなくても

 

 最後のセリフである「また、こんな夜があると良い」の「こんな夜」とは、アルピーANNが2部での継続が決まった夜であると同時に、自分も「石井Dのようになりたい」とほんの小さなひとかけらの夢が生まれた夜のことです。「奇跡のような夢だけど、終わりさえしなければ、きっと。」そう話す声、表情、姿には「1年間のエセ自立生活」の中での思い出が全て入っていたように感じます。アニさんに怒鳴られながらの店内掃除、ミミさんのダル絡み、荒井さんとの攻防、自分の領域にぐいぐい入ってくる永川たち、みんなで見た佐古田の演劇、放送事故すぎる鹿沢の配信……。人に“触られる”のが怖くて、学校に通えなくなった富山が、人との(精神的な)“触れ合い”を通じて東京の家に帰る決意を固めまでの全てが込められている一言だったように感じました。

 

 舞台はこのセリフの後、アカペラで小さく「明るい夜に出かけて」を歌い、富山が「また、こんな夜があると良い」と、まさに「明るい夜」に照らされているような、清々しい表情で3人に語りかけるシーンで幕を下ろします。この後富山がどうなったのかは描かれていません。大学を卒業して放送作家になっているかもしれないし、また学校に行けなくなって金沢八景に戻るかもしれないし、ラジオじゃない居場所を見つけるかもしれない。それでも、金沢八景で見たこの景色は富山にとってかけがえのないもので、タイムマシンはなくても心の中でいつでも戻れる、そんな大切な夜を舞台上から見せてもらっているような。そんな感覚になりました。

 

「演劇の聖地」に今野大輝が立つということ

 

 初日公演を見たときの今野の芝居については以前書いた通りで、冒頭から最初の曲を歌うまではかなり滑舌がゆるく、1人だけテンポも浮いていたのですが、歌い始めてからどんどん役に入り込んでいき、最後のセリフを聞く頃には演じている人が私の大好きなアイドルであることを忘れるような没入感のある芝居を見せていました。

 そこから上演を重ねると、冒頭のシーン(ミミさんを突き飛ばし〜家族会議)は静かに冷たく演じ、そこから最後のシーンに向けてどんどん熱量が高まり最後のセリフまでのコントラストがどんどん濃くなるのですが、その熱量を表現する芝居は決して大袈裟ではなく、富山一志として自然でありながら、感情豊かに演じ切ることができていたと思います。

 

 今作の東京公演が行われた本多劇場はジャニーズが立つ舞台としては座席が少なめの劇場になるので、ジャニーズの規模感で考えたときに、「本多劇場での公演が成功したこと」は、ジャニーズで成功した(役者として売れた)と繋げることは難しいです。それでも、本多劇場のやたら急勾配の座席には、席の数以上に多くの人の心が動かされた作品と、その思い出が詰まっています。そういう、数字で示せない価値を持つ劇場に、他者に付けられる価値よりも、自分が良いと思ったものをずっと信じ続ける、今野大輝という少し変わったアイドルが立ったことは、そんな彼を愛するアイドルファンの私たちにとっても、ラジオという不便なメディアを愛する作品のファンにとっても、そして何より、今野大輝自身にとっても大切な思い出になったのだろうな、そうだといいな、と、いちファンとしては願わざるをえないくらい、大切な思い出になりました。

 

 たった22公演のなかで役者として、どんどん成長していく彼を見ていると、もう二度と「こんな夜」は来ないことを実感します。それでも、いや、それだからこそ、「また、こんな夜があると良い」そう強く願いながら歩く、高崎の街は東京よりはるかに澄んでいて、作品が終わったことの寂しさの中にある大切な思い出の温かさを感じるのにちょうど良い空気が流れていました。

 

初座長公演、お疲れ様でした。

おやすみ〜…

 

 

 

※冒頭、東啓介と今野大輝の共通した演出家はノゾエさんしかいないみたいな言い方してますが、今野大輝が出てた「手紙」の演出家の藤田俊太郎さんは、東啓介が出てたジャージーボーイズの演出もしています。別に誰も気にしないと思いますが…………(ジャージーボーイズは見てないです)